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2009年11月20日金曜日

現代

1990年代よりインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。ルック・イースト政策を掲げてアジア諸国との関係も重視。中立非同盟とはいえ、アメリカ、イギリスとも友好な関係をとっている。一方で、中国、パキスタンとは、緊張関係にある。近年はITサービス業を中心に経済成長を続け、ロシア、ブラジル、中国とともにBRICsの一角として注目を集める存在となり、IT分野においてはその技術力が欠かせない存在となっている。

独立

戦後、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、イスラム教国家のパキスタンとの分離独立となった。初代首相にはジャワハルラール・ネルーが就任した。独立当初はイギリス国王を君主に頂く英連邦王国(インド連邦)であり、1950年に共和制に移行した。政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図った。

インド憲法に書かれた正式国名は「Indian Sovereign Socialist Secular Democratic Republic」であり社会主義共和国を標榜している。独立後は他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかず、近年においても小学校さえいけない子も多く貧富の差も激しいが、不可触賎民出身の大統領(コチェリル・ラーマン・ナラヤナン)や大臣(アンベードカル)も出るなど特例も出てきている。

東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であった。長期にわたって国民会議派が政権を担った。パキスタンとの対立はその後も続き、カシミール問題と東パキスタンを原因として、3度の印パ戦争が勃発した。両国の対立は現在も続いている。

イギリス統治時代

イギリスはインド統治に際して分割統治の手法をとった。インド人知識人層を懐柔するため、1885年には諮問機関としてインド国民会議を設けた。しかし、民族資本家の形成に伴い反英強硬派が台頭したこと、ベンガル分割令への憤りなどから反英機運が一層強まった。こうした中、イギリスは独立運動の宗教的分断を図り、親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させた。

第一次世界大戦で、自治の約束を信じてイギリスに戦争協力したにもかかわらず裏切られたことや、日露戦争における日本の勝利(非白人国家による白人国家に対する勝利)などの影響を受けて民族自決の理念が高まったことに影響され、インドではさらに民族運動が高揚した。

マハトマ・ガンディーの登場は、いままで知識人主導であったインドの民族運動を、幅広く大衆運動にまで深化させた。ガンディーが主導した非暴力独立運動は、イギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。第二次世界大戦では国民会議派から決裂したチャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成し、独立をめざす動きも存在した。

ムガル帝国

16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブルが北インドへ南下し、デリー・スルタン朝を倒してムガル帝国を立てた。ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。3代皇帝のアクバルは、ヒンドゥー教徒との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。しかし、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発、帝国は衰退にむかった。

ムガル帝国の没落に伴い、イギリスがインドに台頭してきた。ベンガル地方の徴税権を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進行した。19世紀前半にはイギリスの対インド貿易は自由化され、イギリスから機械製綿織物がインドへ流入。インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、近代的な地税制度を導入したことも、インドの民衆を困窮させた。ムガル帝国の滅亡(1855年)の後、1877年にはイギリス領インド帝国が成立した。

北インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝

11世紀初めより、ガズナ朝、ゴール朝などのイスラムの諸王朝が北インドを支配するようになった。13世紀よりデリーに都を置くデリー・スルタン朝が北インドを支配し、14世紀初頭には、デカン遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。一方、南インドでは、10世紀後半ころからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄し、11世紀には東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国まで遠征を敢行した。その後、14世紀後半から16世紀初頭にかけてヴィジャヤナガル王国が栄えた。1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットへ来訪したことを契機に、ポルトガル海上帝国も沿岸部に拠点を築いた。

ヴェーダ時代からラージプート時代まで

紀元前2600年頃から前1800年頃までの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年頃にアーリア人がパンジャーブ地方に移住。後にガンジス川流域の先住民を支配して定住生活に入った。アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(いわゆるカースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。

前4世紀、パータリプトラ(華氏城、現在のパトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、2世紀頃には、デカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との海上交易で繁栄。5世紀は、グプタ朝が北インドを統一し、サンスクリット文学がさかんになる一方、アジャンター石窟などの優れた仏教美術が生み出された。これらの古代王朝の後、7世紀からはラージプートの諸王朝が分立。エローラ石窟群やカジュラーホーなどが建設された。

インドの名称に関して

正式名称は、Hi-Bharat.ogg भारत(ヒンディー語。ラテン文字転写は、Bhārat。読みは、バーラト)。英語による国名は、India(インディア)。

政体名を付け加えた、ヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写:Bhārat Gaṇarājya)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、憲法その他の法的根拠に基づくものではない。

日本語による表記は、インド/印度。これもまた政体名を付加して、インド共和国とされることもある。また、連邦制をとっていることから、インド連邦としたり、稀にインド連邦共和国とされることもある。1947年の独立から1950年に大統領制に移行するまでの期間をインド連邦もしくはインド連合、それ以降をインド共和国、と使い分けることもある。

歴史的に哲学が盛んな国であり、多くの優れた哲学者を生んだ。そのため聖賢の国とも呼ばれている。